雑記

恋愛について。

先日、知り合いのカップルが破局したという知らせをもらった。男のほうとは長い付き合いであるので事情を聞いてみたところ、どうやら数か月前から雲行きが怪しくなっていたらしくこのまま別れるのではないかと感じてはいたそうだ。今までさんざん惚気を聞かされていた身なので、そこが別れるとは意外であると言うほかなかった。

恥ずかしながら私は恋愛とは無縁の人生を歩んできているため、男女がどのような経緯を経て付き合いそして別れるのかということはわからない。しかし一度も経験したことがないというのはなかなかにコンプレックスになるらしく、普段は意識していなくともふとした瞬間に「恋をしてみたい」という感情に脳が支配されてしまうことがある。先の話ではないが、どれだけ幸せに過ごしていても別れてしまうこともあるし、その逆にお互いに悪影響を及ぼしそうなカップルが長く続いている話も聞くので経験したのちに公開してしまうのかもしれないのだろう。

話は逸れるが、「無償の愛」という言葉が存在するのに対して「恋」に関してはそういったものが存在しないのは不思議で仕方がない。この話題になると愛と恋の違いについて考える必要が出てくるため非常に難しい問題と化してしまうのだが、自分はこの二つについて語れるほどの知識はないので経験者の話を聞くしかないのだろう。

長々と小難しい言い方をしたが、恋人は純粋に欲しいというのが本音だ。

雑記

音楽について。

先日、久々に友人の行うライブに行く予定ができたので観に行ってきた。古くからの友人であり、夢を追いかけている姿は見ていて応援したくなるものだし自分にはできなかったということもありまぶしく思えてしまう。だが現実は厳しいようで、一年ほど前に抜けたメンバーの代わりがまだ見つかっていないということやそろそろ年齢的にも実を固めたほうがいい時期に差し掛かってきているということをライブ後の雑談で聞き、夢を追いかけることの美しさと残酷さ(理想と現実のようなものか)を垣間見たような気がしてならない。

話は変わるが、私は音楽のジャンルでいえばハードロックやメタル、パンクロックなどを好み聴いているが、演奏する楽器によって好みというものが変わってくるということはあるのだろうかと思う。(もちろん楽器を演奏しない人にとってはその人の感性によったものを好きになるというのが一般的に正しいのではないかと思っている)下手の横好きではあるが私はドラムを演奏することがあり、たまに好きな曲をコピーしてみることがある。そう言ったときにドラムがかっこよく聞こえる曲であったりするのはハードロックの余蘊ジャンルなのではないのかなと私は勝手に思うことがある、それと同じように、ギタリストであればソウル&ブルースのようなものを好きになる傾向があるのかなと考えることが多々あるのであった…。

 

雑記

大人について。

自分が大人であると自覚するのは果たしていつなんだろう。義務教育を終えた15歳か?それとも18禁が解除される18歳か?はたまた成人を迎える20歳か?それとも年齢に縛られず就職したときからなのだろうか。思うところは多くあり、おそらく答えなどないのだろうと思う。

私は「社会人らしい振る舞いをしよう」と心掛けた時から大人になるんではないかと思う。自分の欲求だけで動かず、周りの考えや行動を見越した立ち振る舞いができてこそ立派な社会人であると私が考えているためであろうが、そういった振る舞いができる大人に敬意を抱いているのもある。

個人が自らの意志によって自由に行動することが可能になった結果、自分にとって楽な人ばかりと繋がり、自分と違う人を過剰に攻撃したり排斥するようになったようにも思われる。(かつてのムラ社会でも行われていたのだが…)これらの行為は自己保存やプライドの保持には役に立つかもしれないが、個人の成長の幅を大きく狭める行為に他ならない。「人生はより多くの他者と出会う行為である」とはよく言ったもので、仲間内でつるんで楽な道へ行けば行くほど能力を失い、見知らぬ環境で自分を動かしていく中で自分の考えを見つめなおしたり新たな考えや視点を持つことが可能になっていくのではないか?

他者との差異を認めながらも、それらを理解するところまではいかなくともそれらが存在すること自体を認めることが生きていくうえで自分自身を楽にしていくのではないだろうか?

 

自分の思考の掃きだめと言えど、いざ書き出してみるとまるで独り善がりな理屈であると辟易する。

雑記

性欲について。

生存本能に従っている限りこの欲望と戦い続けなければいけないさだめであり、これに支配されると何事においても集中力が削がれた状態に陥ってしまう。しかしこれらとうまく付き合っていくことを、自らの性別の役割を果たすまでの中間目標としてもいいのではないか。

 

現在飼育下にあるチンパンジーの寿命は50年だと聞く。かつて野生だったころはもう少し短かっただろう。そして人間の寿命も50年といわれる時代から現在のように80まで生きられるようになった。命の延長により、生殖器官が役目を終えても生きることができるようになった。つまり、それらの使命に寿命以外の期限が設けられたといっても差支えはなく、その期限が過ぎるまでの間は性欲と向き合って生きていかなければならないのだろう。

 

そしてこの性欲は個人の嗜好を強く支配することとなっていくのではないかとも思う。例えば、女性でいえば胸や尻、髪の毛などのパーツ。男性であれば身長や肉付きなど、そういったところをワンクッション置くことで性欲という生々しい欲望を理性の枠組みに置くことができているのではないだろうか。なんにせよ、自分の性欲をうまくコントロールするには自分の嗜好を出来うる限り把握しておくことが肝要なのではないだろうか。

雑記

健康に生活していく中で欲望について考えることがある。

基本的なものとしては人間の三大欲求である食欲、性欲、睡眠欲が挙げられるが、これらは文字の通りの欲望とは言えないものであるなと感じることが多い。知性を抜きとした、種の保存という一点を達成するための本能である。ここに人間の意志というものは介在することは難しく、もし自分の意志のように感じてしまったとしてもそれはそう感じるようにプログラムされているものと考えて差し支えないだろう。つまり、これらの本能に多少の差異をつけ彩りを与えるものが人間一人ひとりの性格や嗜好なのではないだろうか。睡眠欲はともかく、食欲と性欲はこの傾向が如実に表れているように感じている。

 

雑記

健康に生活していく中で欲望について考えることがある。

基本的なものとしては人間の三大欲求である食欲、性欲、睡眠欲が挙げられるが、これらは文字の通りの欲望とは言えないものであるなと感じることが多い。知性を抜きとした、種の保存という一点を達成するための本能である。ここに人間の意志というものは介在することは難しく、もし自分の意志のように感じてしまったとしてもそれはそう感じるようにプログラムされているものと考えて差し支えないだろう。つまり、これらの本能に多少の差異をつけ彩りを与えるものが人間一人ひとりの性格や嗜好なのではないだろうか。睡眠欲はともかく、食欲と性欲はこの傾向が如実に表れているように感じている。

 

雑記

私はゲームが好きだ。

RPG、アクション、対戦格闘、パズル…、様々な種類のゲームがあり、その多くは私の心を浮足立たせる。そして最近ではスマホによるソーシャルゲームといったものまで世間で一般化し、ゲームがとても身近なものになってきているように思われる。かつてほど、ゲームが人間にとって悪だ、堕落するといった言論は聞かなくなったように思われる。(それでもなくなっているわけではないのだが…)

 

今回はテレビゲームの話ではなく、カードゲームの話をしよう。

私はあまり多くのカードゲームをやってきたわけではないのだが、それでも今でも細々とデュエルマスターズだけは続けている。やはりカードが40枚あれば点数計算やHP管理などの諸道具がいらないというシンプルさが長く続けられる理由であり、シリーズが途絶えず続いている所以なのではないのかなと感じる。

個々人の性格によってデッキビルドやプレイングまで大きく左右されるのを見るのは多くの対戦を重ねていく中でのひそかな楽しみでもある。環境デッキを作って勝つことを目指すのもいいし、ファンデッキで楽しさを追い求めるのも許される懐の広さがカードのいいところであるだろう。