雑記

自分の人生を生きていないような感覚はいつから覚え始めたのだろうか。

幼少の時分は全てが身近で、地に足のついている感触、吸い込む空気の匂い、眼で見るもの、触れるものさえ身体の延長線上にあったというのに、今はまるで上滑りをしているような感覚で日々を過ごしている。

TPSゲームの如く、まるで自分の背後から自分を見ている様な冷め切った自分がいるのだ。

劇的な人生とはよく言ったもので、活劇の様なドラマチックな展開を期待してるのだろうか?そしてそんなことは起こりうるはずもないことを理解してしまっているからだろうか。

根拠の無い万能感を持てていた時期は過ぎ去り、自分がどの程度の人間なのか気付き始めたのだろう。諦念と妥協とともに生きる事が楽だと気づいたのはいつ頃だったろう?

答えはとても分かりやしない。

 

どこで読んだか忘れてしまったが、最近は属するコミュニティにって自分の性格や立ち振る舞いをコントロールする人間が増えているそうである。きっとそうした行動を続けているうちに、表層に出てくる自分の側面であった筈のものが一つの人格を持ってしまったのではないかとも思ってしまうのは仕方のない事なのだろうか?

シーンごとの性格が出てきては入れ替わるというのはある意味では刹那的なのではないかと考えてしまう。そうした人格の不統合の様なものが不具合として出てきてしまったのが最初の上滑りしている様な感覚なのかも知れない。

 

きっと誰に求められるでもない自分を演じながらこれからも生きていくのだろう。自分の人生さえも演じる様な感覚で。