雑記(22)

ウッカリしてたら年単位で放置してましたね。

 

久々の投稿ということでタイトルにもナンバリングをします(同じタイトルで自分でも判断がつかんので)。

 

本題に入ります。

仕事でも後輩と呼べる子達がだんだん増えてきて、仕事が一緒になった時は話しかけるようにしてるけど、必要最低限の会話で済ませられると嫌われてるのかと邪推してしまう自分がいる。

事務所の中では別に無駄口を叩く必要はないと思ってますが、仲良くなり(というと語弊があるが)業務を円滑にするためコミュニケーションを取ろうという会話まで返事が来ないとなんとも言えない気持ちになる。

 

自分がそうじゃなかったというと自信がないが、せっかく一緒に移動してて、真後ろを黙って着いてこられても何がしたいのかさっぱりわからない。余計な交流と思われてるなら致し方ないが、仕事を頼むときに得体の知れない人間に頼みたくないというのもまた事実ではある。

 

つらつらと愚痴を書きましたが、きっと私の心が狭くて女々しいんでしょう(それはそれとして腹立たしいが)。

 

マイナスばかりの感情でいやになっちゃう

雑記(22)

ウッカリしてたら年単位で放置してましたね。

 

久々の投稿ということでタイトルにもナンバリングをします(同じタイトルで自分でも判断がつかんので)。

 

本題に入ります。

仕事でも後輩と呼べる子達がだんだん増えてきて、仕事が一緒になった時は話しかけるようにしてるけど、必要最低限の会話で済ませられると嫌われてるのかと邪推してしまう自分がいる。

事務所の中では別に無駄口を叩く必要はないと思ってますが、仲良くなり(というと語弊があるが)業務を円滑にするためコミュニケーションを取ろうという会話まで返事が来ないとなんとも言えない気持ちになる。

 

自分がそうじゃなかったというと自信がないが、せっかく一緒に移動してて、真後ろを黙って着いてこられても何がしたいのかさっぱりわからない。余計な交流と思われてるなら致し方ないが、仕事を頼むときに得体の知れない人間に頼みたくないというのもまた事実ではある。

 

つらつらと愚痴を書きましたが、きっと私の心が狭くて女々しいんでしょう(それはそれとして腹立たしいが)。

 

マイナスばかりの感情でいやになっちゃう

症状

本題に入る前に、
3年間36ヶ月かけて20件の記事しか書いてないんですね(やる気あるの?)

与太話は置いといて、
毎回記事タイトルを雑記にしてたら自分でも管理がうまくいかないので、ちゃんと内容をわかるようにします。

(ようやく本題)
自分が認知しているだけでも、午後3〜4年の間にいわゆる精神疾患に名称があること、それを主張する言説が増えているように思える。
全くもってそう言った主張に反論を述べるつもりはないんですが、あまりにも日常的に起こりうること(いわゆる誰にでも起こりうる事)について、

『○○が起きると××のような反応をしてしまいます!でもそれは△△と言った疾患です!」

といった具合に主張されてしまうと、それを感じたら疾患持ちなのか?感じなかったら健常者なのか?と考えたりもしてしまう。

そのうち全てのストレスや不安に病名がついて、この世の中から健康、健常といった言葉が身近では無くなる日も近いように考えてしまう。

言いたいことを文字に起こしたあたりでサヨウナラ

雑記

コンプレックス

突然ですが私はあまり充実していない人生を送ってきたという自覚を心に抱えている。
(無論他人から見たら違うのかもしれないが、そういった話はここでは取り扱わない)

“充実”とひとことで表現してしまったが、その大半は恋愛をしてこなかったという一点に集中しているのだ。
人生において恋愛のみが重視されないのは理解しているが、それでも友人や知人が当然のように経験している(していた)ことを自分は出来ていないという疎外感は拭えぬものがある。

ここ最近はSNS等をやりながら、自分の思い出の要素を他者は恋愛の最中で経験したと知ることが多々ある。その度にまるでささくれが出来たような耐え難い不快感を感ずるようになってしまったのだ。
俺があれだけ楽しんだ宝石のような思い出も、その後は色褪せてくすんだガラクタのように見えてしまう。
俺自身の非なのは言われなくたってわかってる。でも黙っていてくれという黒い感情がふつふつと浮き出てきたらもう自分では止められない。

俺の思い出を取らないでくれ。そっとしておいてくれ。俺だって惨めな気持ちは味わいたくないんだ。

それだけなんだ。

雑記

話し方について


おかげさまで社会人として生活しているわけなんですが(誰に礼を言っている?)、こうして暮らしていくうちにだんだん自分の話し方が狂っていくのを感じてるんですね。


というのも、当然社会人ともなれば目上の人に対して敬語を使うし、私淑するような人がいればその影響も受ける。波風立たせず日々を生きようと思うととてもタメ口なんて舐めたマネはできない。そうして週に五日間働いているとそっちの話し方が自分の中で居場所を持ち始めるってワケなんですよ。


おかげさまで友人と話していても敬語とタメ口が混じった不思議な言語を話しているし、最近は敬語の方が多くなってきた自覚がある。


別に誰が悪いわけでもないし、話し方が変わるだけで自分自身が変わるとは思ってはいませんが、人間は使用する言葉に引きずられるのは大いに知られているため、自分らしさを見失わずにいくのも難しいもんだなと思った次第であります。


とはいえ社会人にもなって丁寧語ひとつロクに使えないというのは望むところではないのでね。上手いこと己の中で折り合いをつけていかないといけないのでしょうね。


雑記

知人友人(前回の続き)


前回は知人と友人の線引きについて思うところを書きましたが、今度は友人の中について。


自分には親友と呼べる相手が数人存在しているが、ただの友人から親友だと感じるまでにどうした変化があるのかとふと考えてしまう。


これも推測だが(推測ばかりで申し訳ない)、同じコミュニティ内で過ごす間は「親友」は非常に生まれにくいのではないかと思う。というのは、学校を想像してもらえるとわかりやすいと思うが、同じクラスにいる限りその友人と関わるのは当然のことであり、そこに一線を超えた特殊性は見出せないのである。部活とクラスという二つのコミュニティで関わり合う相手であればより密接に時間を共有する為少し外れてしまうが、大まかには同じコミュニティや団体に属している間はその相手と関わるのが当たり前であるという事だ。


そこで今自分が親友だと思っている奴らは、全て高校受験でバラバラになった相手なのだ。その後も機会を設けては遊ぶことを繰り返していたからこそ今親友だと思っている。

こういうとまるで一度別れを経験しないと親友は生まれないじゃないかという話になってしまうが、そう思うのだったらもう一度目を皿のようにして読み返してくれって話だ。


そういう意味では大学生の時分に仲良くしていた友人は多くいるが、自分の中で親友という扱いをするまであと数年はかかるのではないのかな?


前回友人のハードルは低いと書いたばかりで言うのも何ですが、そんな自分の中でも「親友」は特別なものなのでもしそういう旨を言われたらかなり信頼されていると思ってください。以上。


どっとはらい

雑記

知人友人

突然だが自分は「友人」のハードルが低い方だと思う。
2、3度会って遊んだりすれば相手のことを友人だと認定してしまう。勿論、多少性格が合わないなと感じても本心からそう思っているし、そうなったからといって特段相手との対応が変わるわけじゃない。
そのおかげか友人は多い方だと自負して生きてきた。(相手はどう思っているかはさておき)

しかし最近はSNSで人と知り合う機会が増えたこともあり、「知人」の割合が大幅に増えてきたように思う。先に述べたとおり2、3度直接会って時間を共有した相手を友人だと感じるため、どれだけネット上で意気投合したりチャットツールで会話しても「友人の壁」を超えられないのだ。

SNSで知り合った相手でも何度かオフ会を経て友人だと思う人も増えてきたが、こうした線引きはどうやって生まれてくるのだろうか?
自分なりの推測としては、きっと対面して相手の表情の変化や会話で間の取り方、話題の合わせ方、そしてなにより会うという行為は会った後何かしらの行為(食事だったり買い物だったり)を伴う為、同じ目的を持ってそこに向かうという経験を得るという相手の人間性を見定められるという点に理由はあると思う。

そういった意味では自分の中である程度の線引きをして、知人と友人で対応を多少なりとも変えた方が良いのかなと考えることが多くなったのである。